思考の補助線

徒然なるままに、思ったことを書き留めます。

書かざるをえない思考について

 

毎年この時期になると、実家に帰省して

地元のカフェでぼんやり1年間を振り返ることにしている。

自分の中で、もっとも大切にしているリズムのひとつ。

 

今年はなんだか無性に、文章にして残したくなったので

とりとめもない思考の断片たちをまとめてみようと思い立ちました。

 

(何ヶ月後か、何年後かの、自分のためのメモです。)

 

 

 

ではいきなりですが

 

今年の一年を漢字一文字で表現して下さい。

 

 

 

実際、そんな質問を誰かにされたわけではないのだけど。

 

でも脳内では、薄ら笑いを浮かべたピエロが

華やかなステージからマイクをこちらに差し出すから

 

12月のある日から、考えざるを得なくて。

 

 

そうして行き着いた文字は、どうやら、

 

 

「諦」

 

 

らしかった。「諦」める。

 

 

その周りには、

 

「失」う、「挫」く、「嫌」う

 

そんな漢字も漂っている。

 

 

 

そう、僕は今年の3月に、諦めた。

 

夢を叶えるのを、諦めたのだった。

少なくとも、20代のうちは。

 

 

 

それまでの僕はといえば

 

大学時代は、夢に向かってまっすぐ生きていた。

そして、不格好な試行錯誤の先に、いま働く会社を見た。

 

そこに飛び込んで、とにかく何でも頑張り続けた。

そうすることが、夢を叶えることにきっとつながると

信じて疑わなかったから。

 

 

でも

 

 

働き続ける中で。歳を重ねていく中で。

 

夢と、仕事の。

理想と、現実の。

 

距離が縮んでいく感覚がない、

ということがずっと不安だった。

 

いま思えば、あたりまえのことだった。

縮めるための努力を、何もしていなかったのだから。

 

そんなことにも気づかぬまま

あるいは見て見ぬふりをしながら

盲目的に仕事に没頭する僕は

いつも焦っていて。どこか余裕がなくて。

(それは今も変わらないのだけど…)

 

それでも

 

夢は夢で、頭の中に居座って

叶えてよとプレッシャーをかけてきて

 

仕事は仕事で、上には上がいて

その差の縮め方がわからないから

 

いまはまだ、夢の途中だから。

腰を落ち着かせるのは、ここじゃないから。

 

いつの間にか、そんな言い訳を並べながら

自分を保つような格好悪いオトナになっていた。

 

 

そしてさらに厄介だったのが

 

僕はどうやら、僕の若い未来に期待しているらしい

 

ということだった。

 

 

世間を賑わすほどに活躍する人はみな

20代のうちに芽を出して夢を生きている。

 

そんなイメージが、なぜか自分にはあって。

そしてさらになぜか、自分もその一員になれるはずだ、と

心のどこかで思ってしまっていたらしくて。

 

その感覚が、さらに僕の

焦りと余裕のなさに拍車をかけていった。

 

 

幼い自分の夢に縛られていた。

 

きっとすごく、不自由だった。

 

 

 

そこから抜け出すには、どうすればいいのだろう。

 

ちょっと、立ち止まってみた。

それが今年の年始から3月にかけてのこと。

 

 

足りない頭で、考えて、考えて。

 

 

そして行き着いたのが、なんてことはない、

「きちんと諦める」という答えだった。 

 

 

しかるべき努力を積み重ねていない人間が

誰もなし得ていない夢を、しかも20代で、

叶えるにはどうやったって無理がある。

 

だから、夢の賞味期限を、20代から40代まで

ぐっと先延ばしにしたのでした。

 

 

そして、夢を目標に変えよう、なんてよく言うけど

目標を掲げたからって、それが達成できるわけもなく。

 

ほんとうに大切なのは、

夢という目標を、計画に変えること。

 

いつまでに何をすれば、その夢は達成できそうなのか。

 

自分なりの仮説や根拠に基づきながら

20代までに何をして。30代には何をして。

段階的に積み重ねるべきものを整理すること。

 

踏まえて、

いま何をすべきかを把握すること。

 

常に試行錯誤すること。たくさん間違うこと。

失敗は全部、やってみたっていう成功のあだ名だから。

 

ときに目移りしてみること。寄り道すること。

未来はきっと、一直線じゃないから。

 

 

そんな整理ができたからこそ、

ずっと胸につっかえていた焦りはとれたのだけど。

 

 

 

そこからが、長くて苦しかった。特にここ3ヶ月。

 

実はこの先が、書き記しておきたかったことなのだけど…

(前半が無駄に長い。悪い癖です。)

 

 

前半書いたような偉そうなことを

大切に胸に秘めていたはずなのに

 

自分の決意とは儚いもので

仕事とは怖いもので

 

特にここ3ヶ月、自分の夢がどうだの、

なんてことは綺麗サッパリ吹きとぶくらい、

ただただ、仕事だけの日々を過ごした。

 

仕事は仕事で、純粋に楽しめていたはずなのに、

それが苦しいと思えるほどに忙殺されていた。

 

単純な話、僕の狭いキャパシティー

物量が明らかに超えてしまっていたのだった。

 

 

決意新たにしたはずなのに、

なぜそんなことになるまで?

 

 

と、いまになって自分に問いかける。

どうやら答えは

 

必要とされたら断れない

 

という、

自分のタチの悪さが原因らしかった。

 

 

ではなぜ、断れないのか。

 

自分は価値のない人間だ

 

だなんて、信じ切ってしまっているようですよ。

いつかのピエロが耳元で囁いてくれた。

 

 

一番根っこにあるのは、きっと自信のなさ。

 

遠いところに夢や理想を置く、ということは

いまの自分にいつまでも満足できない、ということ。

 

能力や幸福は常に相対的だから、満たされなかった。

満たされないことが原動力となって、頑張れていた。

 

だけどそういう人間は、きっと脆い。

いまの自分自身に価値を見い出すのが、随分と下手くそで。

 

だから必要とされたくて、頑張って。

そんな自分を必要としてくれた人のために、全力で応えたくて。

でも応えの質が理想に追いつかないから、苦しんで。

自身が必要とすることは、どんどん後回しになっていって。

必要とされることばかりを、また頑張って。

 

そんな悪循環に飲み込まれていくほどに

自分の価値を認めて自信を持つ、だなんてことは

とても恐れ多くて。ずっとできないままで。

 

なけなしの自分自身を削って消耗する様は、

さながら、ジャムおじさんのいないアンパンマンの気分だった。

自分の顔をちぎって渡し続けるのに、欠けた自分の直し方はわからない。

 

 

そうするうちに、終いには、

自分自身を説得しながら、修復しながら進めないやつが

抱えてしまうという末期症状の代名詞、

乱れた自律神経とやらも総動員で攻め立ててくるから

 

頭痛と吐き気に悩まされるわ

夜中にふと泣き出してしまうわ

それを何百錠もの精神安定剤で誤魔化すわで。

 

朝、シャワーを浴びているときとか

昼、ランチで束の間の休息を得るときとか

夜、ふらふら帰途についているときとか

 

そんな毎日の一瞬に、

ある日の生き様がふと頭をよぎっては

「死にてー」とつぶやいてしまう毎日で。

 

 

12月の某日、満員電車に揺られながら

気がついたら「死にてー」だなんて、

普通に声に出してつぶやいていた。

 

さすがに焦った。笑

 

 

ああ、これはもう、

倒れるか。逃げるか。

 

 

そういうギリギリのところで、

倒れそうになりながら、なんとか

この年末休みに逃げ込んだのでした。

 

 

・・・と、

自分でここまで書いてあらためて思うけど。

 

 

マジでこういうやつ嫌い。

 

僕は、いまの僕が、嫌いみたい。

 

 

自分に自信が持てないことも。

自分を大切にしてあげられないことも。

 

どこか悲劇のヒロインぶってる生き様も。

そこさえ居場所にしようとしている女々しさも。

自分の可能性を捨てきれない執着も。

そうして積み上げてきたガラクタも。

いつか変わるだなんて、奇跡にすがる浅ましさも。

ぜんぶわかってて、なにも変えられない行動力も。

 

 

僕は、そんないまの僕が、嫌いみたい。

 

 

そんなんだから、当然、

恋愛も全然うまくいかなくて。

 

当たり前だよねえ、

相手が自分のことを好きになってくれても

僕が自分のことを嫌いなんだからだからさ。

同じものを好きになれないってことだから。

 

 

なので特段、生きている必要は感じないけど

それでも、死のう、と積極的に思わないのは

 

そんなに急いでこの世界を出ていく必要もないから。

だなんて、考える余裕さえない時に死ねばいいから。

 

ということでしか、正直ないのだけれど。

 

 

でも、このストッパーがあるからなのか、

 

キワッキワのところまでいくと

逆に超ポジティブ思考にもなるという思考癖が

どうやら僕にはあるようでして…謎

 

 

それで最近、思えたのは

 

 

僕は「死にてー」のではなく、どうやら

僕を「殺してー」なのだ、ということ。

 

 

もっというと

 

 

「いまの嫌な自分を殺してー」のであって、つまり

「早く好きな自分に生まれ変わりてー」なのでは?

 

 

だなんて、思えた日があった。

 

 

これまで、毎日毎週毎月毎年、

100万回は「死にてー」って言ってきた自信があるけど

そんな風に思えたことは初めてだった。不思議。

 

100万と1回目だったのかな。関係ないか。

 

 

でも、そんな風にして、自分に幾度となく救われてきた。

たくさん考えるのは、やっぱり死にたくないんだろうね。

 

 

しあわせに、なってみたいんだろうね。

 

 

 

だから、いまの僕に必要なのは

 

夢という目標を、計画に変えること。の前に、

計画に必要ないまを積み重ねること。の前に、

 

 

自分を好きになってあげること。

 

 

なんだと、自然に思えるようになった。

 

 

そうすれば

 

自分のことを大切にしてあげられるようになって、

自分が大切にしたい夢も大切にしてあげられるようになって、

そういう観点で過ごすことが夢と仕事を近づけていって、

夢のために必要なことがどんどん積み重なっていって、

 

…なんていう風に、

なれるのかな。なれるといいな。

 

こんなこと、気づくのに、

27年もかけてしまいました。

 

 

 

ということで、

残りの年末のお休みは

 

どうやったら自分のことを好きになれるのか?

そもそも自分はどんなヒト・モノ・コトが好きなのか?

どんな要素を足せるともっと自分を好きになれるのか?

 

なんてことを考える予定。

 

踏まえて、それを叶える計画もきちんと立ててみたい。

きっと、夢を叶える計画とも地続きになっているはずだから。

 

 

 

最後に、少し話は逸れるけど。

 

 

今年一番最近の仕事は、たまたま、

僕の夢と実に仲の良さそうな案件だった。

 

それだと明らかにわかるボールが、目の前を転がっていた。

あとは思いっきり、シュートを打つだけだった。

 

なのだけど、体力的精神的に力が残っていなくて。

その日までに積み重ねてこられたものが、少なすぎて。

 

僕の弱々しいシュートは、きっと、

あっさりキーパーに止められたのだと思う。

打ち抜ければ、次のチャンスがあったのかもしれない。

 

一度しかないチャンスを決めきれるほど、人間できてないよ。

だなんて言い訳する嫌な自分を、さっさとぶっ殺さなきゃね。

 

 

本当に、勉強になることばかりの仕事だった。

案件を通じて、自分の伸びしろがありありと見えた。

 

変わりたいと思ったし、変われると思った。

あとは、やるか、やらないか。

そのための計画も立てなきゃ。

 

 

やる前と、やった後で、何も変化がないなら、

それを「努力」とは呼ばないんだぜ。ってね。

 

今年があったから、来年があった。

って、自分に言わせてあげられるのは、自分だけだから。

そうやって、未来は過去を変えられるはずだから。

 

 

来年はがんばろう、がんばります。

 

 

 

おわり。

サイトをつくりました。

全く手をつけてなかった、このブログ。

 

お読みいただいている方、いるのかな。

いたら、ありがとうございます。

 

 

このブログでは、以前から「アイデアの補助線」というタイトルで、アイデアの思いつき方みたいなものをまとめてました。

 

実はいま、それをWEBマガジンとして随時更新中です。

 

 

イデアの補助線 - Additional Lines for IDEA.

additional-lines.com

 

 

広告業界で悪戦苦闘し続けて、5年目になりました。

 

この4年間、常に突きつけられてきたこと。

 

 

 

“僕は、天才的なひらめきが降りてくるような、才能豊かな人間ではなかった”

 

 

 

それでも、アイデアを考えることは好きだから。

 

性懲りもなく足掻いては、すがりついて。

120点のアイデアは生まれなくても、アベレージ70点くらいのアイデアならコンスタントに思いつけるように、「アイデアの思いつき方」に関しては学んできたつもりです。

 

 

ただ、それを自分だけが抱えていても、使いこなせないなぁと。

 

こんなものでも、誰かの役に立てるのなら。

たったひとりでも、そこから素敵なアイデアを思いついて、世の中をもっと面白く、さらに豊かにしてくれるのなら。

 

 

純粋にそんな思いで、WEBマガジンの更新を続けています。

 

もしご興味がおありでしたら、冷やかし程度に覗いてみてください。

 

 

 

なお、本ブログについては、閉鎖こそしませんが、しばらくはまた更新しないと思います。

 

普段思うこと、感じたことをつらつら書く、という用途ももちろんあるのですが…

 

 

今の時代、自分の思っていることを言葉にして発信することが、本当に簡単になりました。

簡単になりすぎて、丁寧さ、慎重さに欠けてしまうところがあるなぁと、個人的な経験も踏まえて反省するところもあります。

 

 

なので、最近は日記をつけはじめました。

 

まだはじめて1週間ですが、1日1ページ、わりとビッシリ埋める程度には、日々思うことや感じることがあるみたいです。

 

 

誰かに見られるためでなく、自分のためだけに、言葉を綴る。

案外、今の時代においては貴重な体験なのかもしれませんね。

 

 

そんなこともありますので、誰かに思いを発信したい、と強く感じた時だけ、このブログを通して発信できればと思っています。

 

 

 

ブログのタイトルは、「思考の補助線」に変更しました。

 

 

 

こんな文章を最後までお読みくださっている、物好きなあなたへ。

 

どうぞ末永く、今後ともよろしくお願いします。

 

 

 

fin.

【就活】OB訪問で社員を紹介してもらうための「リツイート」理論

このブログで書きたいこととは関係ないのですが...

 

就活について、いくつか思うことがあるので

数回に分けて書きたいと思います。

 

 

この時期になると、まさに真っ盛りとなる「就職活動」。

特に、若手社員の方なんかは増えますよね。OBOG訪問。

 

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※「OB訪問」とGoogle検索して一番上に出てきた画像

 

 

僕も毎年、何名もの学生さんに会ったりしますが

そこで一番厄介だなぁ、と困るシーンがあります。

 

それは、こんな場面 ↓

 

---

※ 相手は見ず知らずの学生

 

学生「本日はよろしくお願いします。」

僕「はい、よろしくね。」

 

学生「早速ですが、・・・・・」

  (用意してきた質問をさんざん投げかける

僕「それは・・・」

  (質問に延々と答える or アドバイスを贈る)

 

 

学生「とても参考になりました。ありがとうございました。

   そしてすみません、お願いがあるのですが、

 

   他の社員さんもご紹介いただけませんか?

---

 

 

これです。

他の社員紹介を求められるパターン。

本当によくある、お馴染みの光景だと思います。

 

 

OBOG訪問した相手に別の社員を紹介してもらうことで、結果、

たくさんのOBOG訪問を達成するというこの芋づる紹介方式ですが

 

就職活動においてはもはや常識となりつつこの風習に

僕は常々疑問というか、やり方ってものがあるでしょと感じています。

 

 

 

僕の思う、最もダメな社員紹介のお願いの仕方。

それは

 

「コイツの人生のダシに使われているな」

とOBOGに感じさせてしまう

 

こと。

 

 

冷静に、OBOG側の気持ちに立って考えてみます。

(というか、一般論かどうか判断つかないので、僕の気持ちですね。)

 

 

上記の会話の大半の例でいうと、

 

 

まず、見ず知らずの学生が突然、自分のところに訪ねたいと言う。

自分は毎日業務があって慌ただしい。

 

とはいっても、学生さんも人生が懸かった勝負。毎日不安と戦っている。

だからできるだけ応援したいと思うし、

学生にとっては自分が会社の顔となるわけだから、下手な対応もできない。

やるからにはこっちも本気でサポートしようと思って会う。

 

そして、いざ会ってみる。

すると、用意されたような定型文の質問をさんざん浴びせられる。

(時に、こんな質問まで考えててすごいでしょ?みたいな

 質問することが目的化してるものもあったりする)

 

僕としては、学生がなぜその質問をするに至ったのか、

つまりその子が本当は何を知りたいのかを探りながら質問に答えつつも

だいたいは学生自身もなぜその質問をしたいのか、それがどう活きるのか、

イメージしきれていないことがほとんど

 

結局、僕の方で相手の子が何を本当は知る/考えるべきで、

それに向けてどう就活を進めていくべきかをアドバイスする。

それに対して学生は感心感謝していたら、タイムリミットがくる。

 

で、例の一言が飛んでくる。

「他の社員さんもご紹介いただけませんか?」

 

 

 

そしたら、普通、

 

 

こっちの時間をとった挙句、型にはまった質問だけして

この子どんだけ自分勝手に他人を使ってるの。

おまけに軽々しく他の社員を紹介してください、って、それ、

僕の親しい同期・後輩や先輩に

同じ思いをさせろってことになるからね。

自分の大切な人たちに迷惑かけたいわけがないし、

それをわかってて紹介するだなんて、そんな

「大切な人を売る」みたいなことしたくない。

 

 

...的なこと、思いませんか?というお話。

まぁ、僕の心が狭すぎるだけって話もあるかもですが・・・。

 

 

 

これをTwitterで喩えるならば、

 

退屈なアンケートを1時間させられた挙句、

「拡散お願いします」とお願いされている

 

状況に近い気がします。

誰がしたいんだ、その拡散。みたいな。

 

 

とはいえ、社会人には色んな力学が働いてますので

しぶしぶ紹介せざるを得ない、みたいなことが、

就活における社員紹介の実情に、もしかしたら近いんじゃないかな。

 

 

そして何より困っちゃうのが、

 

「他の社員を紹介してもらえて当たり前」

と学生側が思っている

 

ということ。

 

 

そして、その諸悪の根源は

 

「学生という立場をフル活用して社会人を使い倒せ」

と雑な社会人が学生にアドバイスしている

 

ことに他ならないと思うのですが

 

 

そのメカニズムに関してはいったん置いておくにしても、

 

学生といえど、見ず知らずの他人を

自分都合で消費するのが当たり前になっている

 

という就活の風習は、

まず人としてどうなのそれ、と思ってしまうわけです。

 

 

でも、そうはいっても現実問題、

そのOBOGをたどるしか、他の社員と話のできる機会がない

というのが実情だと思います。

 

何も、他の社員を紹介してもらうことがダメとは思いません。

むしろ、じゃんじゃん紹介してもらえばいいと思います。

僕も学生の頃、多くはありませんでしたが社員紹介をしてもらっていました。

 

 

だとすると、問題は、

いかに気分よく、他の社員にも紹介したい

OBOGに思わせるか

だと思いますが

 

 

これを先ほどのTwitterで喩えるならば

 

どうすれば「自分」というコンテンツを

リツイートしたいと思わせるか

 

だと思います。

 

 

思うに、人がリツイートしたくなるためには

主に3つの力学が存在している気がしています。

 

それは

 

 

拡散希望】この問題・感動を周りに広めてください、みたいな

ソーシャル・グッド力学

 

これヤバイ(笑える、かわいい、面白い等)からみんなも見てよ、みたいな

エモーション・グッド力学

 

これをいいと思ってる・知ってる自分ってステキでしょ、みたいな

セルフ・グッド力学

 

 

の3つです。

 

普段、自分が拡散しているコンテンツも

だいたいこのどれかに当てはまることが多いのではないでしょうか。

 

 

なので、ようは、

 

OBOG訪問をする際には

3つの力学のうちどれかを与えるコミュニケーションをして

気持ちよく自分を他の社員にもリツイートしてもらおう

 

ということ。

これが、今回提唱するリツイート理論の本旨です。

 

 

たとえば

 

ソーシャル・グッド力学で言えば、

自分の生い立ちやこれまでの生き様(ストーリー)から

訪問先企業になぜ興味関心があるのかを話して

「こいつのことは応援したい!」と思わせる。

 

エモーション・グッド力学で言えば、

自分が過去・今に何を考えトライしてきたか、

未来に向け何をどうしていきたいかを話して

「こいつ面白いな!」と思わせる。

 

セルフ・グッド力学で言えば、

上記2つのような話ができていれば自然と働くものですし、

もしかしたら「ミスコン」とか「〇〇大会優勝」とか箔のつく経歴があれば

自ずと働いてしまうものかもしれません。

 

 

そうした、自分を売り込むような話がキチッとできれば

自ずと他の社員にも会わせてあげたいと思うのが人の心情です。

 

そしてその話は、何もツイート140字やES400字で収まるような

不自然にまとまった内容でなくてもいいんですよね。

 

そんなことよりも、

 

目の前の人に、誠実に、精一杯、向き合っているか

自分の魅力を、真剣に、楽しそうに、語れているか

 

の方が、何百倍も大事。

 

 

そして、それこそが、

OBOG訪問の際に多くの学生が見落としていること

だと思います。

 

 

OBOGの人たちの後ろにある会社ばかり見るのではなく、

まず相対する人ときちんとコミュニケーションすること。

 

「就活」という摩訶不思議なイベントに惑わされず、

自分を他の人に紹介してほしいなら

自分をどう見せれば紹介したいと思ってもらえるのかを

相手の立場になってふつうに考えて実践すること。

 

そういうことが一部分でも伝われば、きっと、

相手のOBOGも学生さんを応援したくなって

むしろこっちから紹介しようか?と声を掛けしたりします。

そのスパイラルこそが、すごい社員さんと出会える秘訣だとも思います。

すごい社員さんほど、面白い学生に敏感で会いたがってますからね。

 

 

**

ちなみに僕は学生の頃、自分の為とはいえど

相手のことをダシに使うようなOBOG訪問が本当に嫌で、

なので最低でも2回は会うようにしていました。

 

1回目は、就活の話は完全に蚊帳の外において

相対する相手がどんな人なのか、

それに対して自分はどういう人間なのかを語りながら

まず人と人としての関係性づくりに終始。

 

そして2回目に、就活のことで相談させてくださいと

お願いするかたちをとっていました。

 

これが正しい・正しくないはよくわかりませんけどね。

自分はこういう生き方・接し方をしたいと思ったまでです。

**

 

 

つらつらと長く書いてしまいましたが、

ようはこの記事で伝えたかったのは

 

OBOG訪問の際、

自分のことばかりに気を取られて

相手のことを忘れてませんか?

 

質問することばかりに気を取られて

自分の魅力を語ることを忘れていませんか?

 

ということでした。

 

 

拡散希望付きのアンケート型OBOG訪問、

ダメ、なるべく。

 

あくまで個人的な 意見ですけどね。

 

 

"いつもは起動しない”ことで使用者を魔法使いに変えるウェアラブル「Dorothy」

古い事例ばかりではなんなので、

今回は最近のアイデア事例を。

 

取り上げるのは、「オズの魔法使い」に登場する、

”かかとを3回打ち鳴らすと家に帰れるドロシーの魔法の靴”から着想を得た

ウェアラブル端末「Dorothy」を。

 

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このウェアラブル端末は、オズの魔法使いよろしく、

かかとを3回打ち鳴らすことでスマホが起動し、

誰かに電話をかけたり位置情報を送れたりするというもの。

 


Dorothy on Vimeo

 

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事前に登録しておいた連絡帳から誰かに電話をかけて

退屈な会話の途中に抜け出すことができたり、

 

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あるいは誰かに位置情報を送ることや、

Uberと連携してタクシーを呼ぶこともできる。

 

 

ウェアラブル端末を、単に

「着用するだけ=いつでも機能が堪能できる」

とするのではなく、

 

使用者にしかわからない”おまじない”を通じて

人知れず機能が作動する、というところに

何か悪いことをたくらむようなワクワク感が生まれています。

 

 

ここに、僕は、

ウェアラブル端末に対する漠然とした不信感の正体と、

それに対するよりよい在り方のヒントを垣間見たように思います。

 

もともと、僕はウェアラブル端末に対して、

不信感というか、「そんなもの、本当に使うのか?」

という疑念、うさんくささがあって。

 

それは、Google GlassNIKE FUEL BANDを筆頭にした

ウェアラブルがもたらす生活が、

人が暮らす上で本当に必要、あるいはとても刺激的、

という印象がどうしても薄かったからかもしれません。

 

たしかに、目の前の光景に対して

様々な分析情報が浮かび上がったら楽しいのかもしれません。

自分の運動量が逐一計測されインプットされると面白いのかもしれません。

 

しかし、いつもなんでも情報がほしいわけでもありませんし、

知らないほうが自然と目の前のものと向きあえていいこともあったりします。

 

「そんな”余剰な”機能を、いっつもは求めないよ」

「そんな”余剰な”機能のために、今の行動・習慣を変えるのは面倒だよ」

 

そんな思いが、どこかにあったのだと思います。

人間の能力や生活環境を”勝手に””常時”アップデートされてしまうことが

なんだか億劫で、いいものなのかどうなのかわからないという思い。

 

すごいのはわかるけど、本当に求めていた生活が手に入るのかといわれると

ちょっとズレてるんだよなぁというか...。

 

 

でも、今回この「Dorothy」を見て、

「これならぜひ欲しい!!」と思いました。

 

単純に、使用シーンが本当に使いたい場面を描けてますし、

他にも、たとえば万が一、誘拐されたり危険な目に遭ったりしたときに

犯人に知られずにSOSを送ることができそう、

といった様々な実用性が感じられます。

 

そして、”相手に気付かれずに、自分だけがわかる方法で”

この機能が操れるというところに、

 

魔法使いになったような、

もっと強くて嫌らしい言葉を使ってしまえば

自分が相手の上に立てるような、

そんな優越感にも似た感覚をもたらし高揚感を与えてくれます。

 

そして、そうした人間の能力を拡張する機能を

”自分の思うままにコントロールして使える”という、

人間 > 機械 という関係性が見えることも、結構重要なように思います。

 

機械の機能に人間が支配されるのではなく、

自分の意志で思うままに起動・停止ができる。

 

そう、これまでのウェアラブルには、

機械都合で自分が縛られ合わせなければならないことに

潜在的なストレスを抱えていたんですね。

 

 

「Dorothy」はこのストレスを

 

・常時は起動せず、”本当に必要なとき“に応じて使える

・自分だけの”おまじない”で起動する

・それが相手には悟られない

 

とすることで、使用者に対して

 

「機械よりも人間が上に立ち、コントロールできる」

「相手を痛快に出し抜ける」

 

と感じさせ、クリアできているのが大きい。

 

"いつもは起動しない”という機能を付けたことで、

「必要なときだけ魔法使いになれる!」

(=不必要な時まで、新しくて疲れそうな生活を送るハメにはならない)

と感じさせることに成功した、とも言えるかもしれません。

 

 

これをヒントに、たとえばGoole Glassでも

「ウインクを2回したときだけ、写真が撮れる」といった

限られた機能だけをコントロールできる仕様にするだけで

僕は断然、欲しいと感じます。

 

常に起動することで生活をガラリと新しくしてしまった方がいい、

という発想を捨てて

 

"いつもは起動しない”ことで

本当に必要なときだけ魔法使いに変われる

と感じさせられるという発想。

 

今後、こうしたウェアラブルに注目したいと思います。

種も仕掛けも明かすことで、”想像させて、裏切り、超えていく”強さ「10番目の感傷(点・線・面)」

トレンドに関係なく、自分の好きなアイデアを考察して

普遍性を帯びた「面白さ」の抽出を試みるこのブログ。

 

今回は、2010年のメディア芸術祭でアート部門の優秀賞にも選ばれている

クワクボリョウタさんの

「The Tenth Sentiment /10番目の感傷(点・線・面)」

を取り上げたいと思います。

 

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The Tenth Sentiment / 10番目の感傷(点・線・面) - YouTube

 

真っ暗な部屋には

ミニチュアの小人や箱、洗濯バサミや料理に使う編みのボウルなどが

無造作に置かれている。

 

その中を、小さな灯りをこうこうと照らす汽車が

どこか寂しげに走り抜けていきます。

 

すると

部屋に置かれた小人や洗濯バサミなどが

汽車の灯りに照らされて

 

ミニチュアを見ただけでは全く想像できなかった、

まるで異世界ともいうべき、時が止まってしまったかのような

不思議な風景が壁いっぱいに影として映し出されていく作品。

 

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ぜひ、動画で最後まで観ていただきたいなと思います。

 

まるで、宮沢賢治銀河鉄道に乗り込んでしまったかのような世界。

最初は「なるほど、そういう仕組みね!」と驚くものの

 

静寂の中、カタンカタンと鳴り響く汽車の音

次々に映しだされていく異世界の風景

 

それらに目も耳も奪われて没頭していくうちに

まるで自分が汽車に乗って別の世界に来てしまったかのような

それでいて幼い頃に一度来たことがあるような

そんな不思議な錯覚に陥ってしまいます。

 

そして終盤、その世界は突如、崩れ去る。

 

汽車が急速に来た道を戻る様は

汽車のけたたましい音と相まって

まるで世界が狂ってしまったかのような感覚を覚えます。

 

急に突き放されて現実へ戻ることを余儀なくされ

幻想的な時間は終わりだと告げられながらも

巻き戻されていく時間、風景から、目を離せない。

 

ファンタジックで、どこかノスタルジックでもあるこの作品は

人間の何か大切な感情を根こそぎ揺さぶってしまうような

そんな強い力があるように思います。

 

 

ここで終わってしまうと学びがないので、もう少し。

なぜ、この作品に感情が揺さぶられてしまうのか。

 

 

まず、見逃せない点として、

「影」は、ある意味で”実物を超える存在感”を持ちうる

ということが挙げられると思います。

 

どういうことか。 

 

人は何かの影を見かけると、

影を生み出している実体はなんなのか、想像を膨らまします。

 

影の姿かたちを見て、ワクワクすることもあれば、

それが、自分に危険が及ばないものか、

安心して、気を許してしまってよいものなのか、

悪い方向に想像を膨らましてしまうこともある。

 

後者の場合、それは

自分の身を守るための生存本能に近しいでしょう。

 

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これは、

人が闇を恐れ、光を生み出し

結果、光により闇をさらに濃くしてしまった頃からの

遺伝子レベルで染み付いている感性、習性なのだと思いますが

 

”黒”という色、”存在を映し出す”という鏡的な特性も相まってか、

人は影を見ると、影を生み出す実物がなんなのか、

強く想像力を巡らしてしまう。頭の中を占拠されてしまう。

そして、あらぬ方向へと妄想を働かせてしまう。

 

そういった意味では、想像力を働かせる必要のない実物よりも、

ある意味で、影の方が”存在感”が際立つように思います。

 

 

この作品では、時が止まった不思議な情景が

影となって次々と壁いっぱいに浮かび上がる。

 

その、見る人の想像力を掻き立てる存在感の連打に

感情が揺さぶられ、その世界に没入していってしまう。

そこには、ある種の強力なインタラクティブ性を感じます。

 

 

そして、もうひとつ、

この作品の最も面白いと感じるところは

種も仕掛けも見えるのに、影によって”想像を超えてしまう”

ところにあると思います。

 

僕も実際にメディア芸術祭でこの作品を体験しましたが

部屋の中央に置かれた小人の模型や色鉛筆、洗濯バサミ、ボウルなどをみて

「だいたいこんな影ができるだろう」と、

影が映し出される前に勝手に想像してしまいます。

 

しかし、実際に壁全体を包み込むように投影される

ダイナミックな影の世界は、

そんな自分の浅はかな想像を、安々と上回ってしまう。

 

 

僕は常々、人が感動したり興奮したりするのは

「その人の頭の中(想像)よりも、面白いことが起こってしまったとき」

だと思っているのですが

 

つまり、

この作品はあえて種も仕掛けも明かすことで

「こんなものだろう」というチープな想像を体験者にさせてから

幽玄な影の世界によって、その想像を上回ってしまうことに成功している。

 

それさえも、計算のうちかも...と思うと、

ますますこの作品への畏敬の念は深まります。

 

 

同様の発想でつくられているものとして、

他にもJIM SANBORN氏が手がけたパブリックアートがありますね。

 

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うーん、素晴らしい。

 

こういうものがいつか創れるように、

追いかけていきたいものです。

好奇心を刺激する"プラシーボ効果"で日常を豊かに変える「The SF Mirrors」

今回取り上げるのは、

ふとした幸せを街のあちこちに広げるパブリックアートプロジェクト

「The SF Mirrors」を。

 

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Track down your favorite teacher and thank them for helping you get where you are today.

”好きだった先生を見つけて、自分が今の場所にいられるのは先生のおかげだと感謝しよう”

 

このアイデアは、インスピレーションを与えたり、

勇気づけたり、希望を与えたりするメッセージが記された鏡を

サンフランシスコの街中に設置するというもの。

 

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Sometime this month, do something you'll remember for the rest of your life.
“今月のどこかで、これからの人生でずっと忘れることのない何かをしよう”

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Looking good. Ask him/her out for some coffe today.

“よし!いい感じだよ。彼 / 彼女をコーヒーにでも誘ってみよう!”

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If this was your last year alive, what would you be doing differently?

もし今年が生きられる最後の年だとしたら、あなたはいつもと違ってどんなことをしているだろう?

 

街中を歩いていると、ふと、自分の姿とももに

ちょっとした好奇心をくすぐる言葉たちが並べられている。

中には余計なお世話だよ、なメッセージもあるかもしれませんが

でも確かに、その日1日の過ごし方が少しだけより良くなるかもしれません。

 

このアートの面白いところは

いったん好奇心を刺激されてしまえば、日常に対する見つめ方が変わり

無関心に通り過ぎていただけのモノや時間が豊かに変わってしまう

"プラシーボ効果"にこそあると思います。

 

 

プラシーボ効果とは、ご存知の通り、

風邪薬ですよとただのビタミン剤を患者に処方しても

患者自身が「これで治る!」と信じ込んでいると

本当に風邪薬を処方したかのような効果が表れる現象を指します。

 

これを活用し、たとえばとある試乗ディーラーでは、

他車と大きな違いはないがこだわりのあるエンジンを搭載させた車に

来場客を乗車させた際、顧客がエンジンをかける前に

 

「エンジンをかけたときに、よく耳を澄ましてください。

 唸るような重低音が鳴り響き、あなたの身体を心地よく揺らしますよ。」

 

といった声掛けをすると聴いたことがあります。

このように声をかけられた乗客は、たとえ他車と大きな違いはなくとも、

あたかもその重低音、エンジンがとても良いものに感じられるでしょう。

 

このように、意図的な「事前情報」を仕込むことで、

その後の身に起こる物事、感覚を事前情報にもとづき理解させ、

良いものと錯覚させてしまうことができます。

 

 

このアートでも、なんでもないただの日常を

「好きだった先生と、もしかしたらあの角を曲がったら会えるかも」

「今日の自分だったら、大好きなあの人も惚れちゃうかも」

「明日死んじゃうかも...としたら、今日何してみようかな」

という事前情報をうっすらと信じこませることで

その後の行動に、今まで抱かなかった期待や好奇心を寄せることになります。

 

好奇心を刺激する"プラシーボ効果"で、日常は少しずつ豊かに変えられる。

そんな可能性に満ちたアートにも思えました。

 

 

同様の取り組みで、たとえばSonyが実施していた

「好奇心活性化プロジェクト」も、まさにこれにあたりますね。

 

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他にも、好きな言葉でいうと、

今、この下りエスカレーターは地球の中心に向かっていると想像してみよう。

雨が降ってきたら、雨を待っていた人のことを想おう。

1通のメールを1回の電話に変えてみよう。

とかは、いいなぁと思いました。

 

六本木のいたるところに、上記のようなOOHを掲出することで

待ち行く人たちの好奇心を刺激し、プラシーボ効果を与え、

日常を見つめるまなざしを豊かに変えてしまいます。

 

 

また、さらにこれを“まちづくり”にまで発展させている例としては

現在森ビルが実施している「森のこびと ヒルボックル」があります。

 

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六本木ヒルズの105万個のイルミネーションのなかに隠れているそうです。
みつけたら 恋を叶えてくれるなんて噂も。

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土曜日の昼、 アークヒルズマルシェで野菜を選んでいました。
お店のひとにシチューのレシピを聞いていたとか。
たくさん買い物をしたら駐車料金が無料になって
いたく感動していたそうですよ。 

https://www.mori.co.jp/hillbokkur/

 

これは、森ビル施設周辺には森の小人「ヒルボックル」がいると設定し、

ラジオやWEB、冊子などで物語を紡ぎながら

実際に街のいたるところにもひょっこり現れては

見つけた人には〇〇なことが...という小さな幸せが訪れる、というもの。

 

街歩きそのものが、豊かな体験に変わる可能性を秘めています。

 

 

その他にも、最近よく

「アニメ × 地域活性化」という手法が見受けられますが、

 

涼宮ハルヒの憂鬱

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あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。

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「この街に、あのキャラクターがいるかも!?」

という事前情報がプラシーボ効果となって、結果

聖地巡礼”という現象を生み出していると解釈できます。

 

 

なんでもない日常が、少しでも良いものに変わってしまうような。

そんな体験が、日本の様々なところでできたら面白いですね。

理性や言葉を追い越して"伝わってしまう"媒介に託す「A Heartbeat's Journey」

今回取り上げるのは、

NGOSave the Childrenが2012年に実施した

A Heartbeat's Journeyという施策です。

 


Save the Children - Feel Again (A Heartbeat's ...

 

Save the Childrenが普段実施している、

難民キャンプ等の人たちへのメディカルチェック。

 

その際、子どもたちの「心音(鼓動)」を録音して、

音源をアーティストのOne Republicのメンバーに手渡します。

そしてその心音(鼓動)のリズムをベースにした楽曲「Feel Again」を制作し、

その売上げの一部をSave the Childrenに寄付したという試み。

 

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この施策を知ったとき、

素晴らしい!と膝を打って感動してしまいました。

それをなぜだろう、と考えた時、

3つの要素があるからだと思い至ったので考察してみます。

(みっつめ、が最重要ポイントのつもりです。)

 

 

① 暗い問題を明るく、ポジティブに伝えるトンマナ

 

まず、ひとつめ。

それは、暗くネガティブに訴求されがちな

「貧困」「寄付」といったテーマに対して

圧倒的なまでのポジティブさ、気持ち良さがあるからこそ

 多くの人が振り向き、関わりたいと思うことができたということです。

 

こういう問題を取り扱う際、よくありがちな訴求として、

よく街頭での寄付の呼びかけにもありますが

 

「3秒に1人、子どもが亡くなっています」だとか

「これだけ可哀想な子どもたちがいるのだから、助けて下さい」だとか

 

問題のネガティブな側面にスポットライトを当て、

義務感や使命感を煽って寄付を促すケースがとにかく多い。

 

それを間違いだと言うわけではありませんが...

 

お茶の間や街角で、普段通りの生活を暮らす人々の気持ちを想像すると

当たり前ですが、少しでも明るく、楽しい1日を過ごしたいと思っている。

 

そうした中で、TVで、街頭で、

いきなり社会の問題を突きつけて

「寄付をしないあなたは慈悲のない、あたたかい心の欠けた人だ」

と言わんばかりの義務感や使命感を強要されるわけですから

当然受け入れ難いと言うか、耳を傾けにくいわけですよね。

 

ただ、いつも難しいなぁと思うのですが、

こうした問題を発信する人たちは、いつも真剣に社会問題と向き合っている。

一緒に悲惨な現状の中に身をおき、苦しみを共に噛み締めているからこそ、

悲痛な想いで気持ちをぶつけたくなってしまう。

自分の中に芽生えている使命感が、他人の中にもあると思い込んでしまう。

 

だから結果的に、そうした熱すぎる温度のメッセージを押し付けるような

訴求の仕方になってしまうのだと思います。

 

おそらく、この企画の前提として、

「伝える側と受け取る側との間には気持ちの大きなギャップがある」

ということを真摯に見つめることから始まっているのではないでしょうか。

 

寄付を集めるには、ふつうの人たちの協力が不可欠。

そして、ふつうの人たちが毎日の生活の中で振り向きたくなり、

危機に瀕する子どもたちへの関心を寄せたくなるものは、きっと、

 

お茶の間でTVを観たり、街角のカフェで談笑するのと同じように 

明るく、ポジティブな気持ちよさがあるもの。

そういう考え方は、とても重要なように思います。

 

 

② 相手の大好きな関心ゴトと関連付ける

 

ふたつめです。

この考え方は、以前書いたエントリー( ↓ )とも共通しますが

 


相手自身にではなく「相手の大好きなものにいい影響を与える」という切り口 - Concert Milk - アイデアの補助線

 

この企画では、有名なアーティスト「One Republic」を活用。

このアーティストのファン、ポップ&ロックのファンにとっては

 

One Republicがこうした問題に関心を寄せ、何かを変えようとしている

 

という姿勢、そして音楽を通じたメッセージングがきっと、

ぶっ刺さりますよね。

 

自分が語りかけたい相手が好いているヒトやモノ、コトに

自分の関心を寄せてほしいこと(貧困問題)を語ってもらうという手法は

やはりものすごく効果的だと思います。

 

そして、媒介が「音楽」であることもものすごく重要ですね。

音楽の人に訴えかけるチカラ、動かすチカラは本当に強力です。

 

そしてそれを、単なるメッセージング以上のものに仕上げた。

こここそがこのアイデアの本当に素晴らしいところだと思いますが

それはみっつめのポイントで語りたいと思います。

 

 

③ ハッとする事実に、強く、強く、触れる

 

さて、みっつめです。

こここそが最重要ポイントだと思います。

 

今回の企画で促したい行動は、寄付。

そして伝えたい事柄は、「助けられるはずの貧しい子どもたちがたくさんいる」ということ。

 

でもね。こういっては語弊があるかもしれませんが、

"そんなことは、みんな知っている"時代だとも思うのです。

 

これまでもこうした事柄はたくさん言われ続けてますし、

ましてやSNSを始めとしたソーシャル時代では、

こうした情報に、当たり前のように触れる。

 

だから、みんな悲惨な現状の写真や情報は見たことがあるし、

知ったつもりにもなっている。その上で、目の前の生活に没頭している。

そうした人たちに、あらためて事実を伝えても発見感はないわけで

ましてや「助けてください」なんてお願いされても

 

この問題だけじゃないしなぁ、とか、

またこういう系の話かぁ、とか、

そんなことを思いながら尻込みしてしまう気がします。

 

そうした”知ったつもりになった上で、関わることを選ばない”人たちを

振り向かせ、関心を抱かせ、解決を願うように育てるために、

一番強く響くメッセージって何なのだろう。

 

 

そう思うと、実は一周まわって、

 

 ここに、生きている子どもがいる。いるんだ。

 

という、当たり前すぎる事実を、

まっすぐ、ありのままリアルに、強く、強く、届けること。

だと思ってしまいました。

 

 

そしてそれこそが、

 

 トクン。トクン。

 

と、確かに今も地球のどこかで生きる子どもたちが響かせる、

鼓動そのものに耳を傾けること。

 

それはまるで、生死をさまよう人の胸に耳を当てて

あぁ生きてる、生きてるよと、「生」を強く実感し感動する行為に似ています。

 

 

自分の生活を鑑みると、想像を絶する環境で生きる子どもたち。

その子どもたちが今も響かせる、弱々しくも、強い、あまりにも強い鼓動。

そこに耳を傾けてしまったら、この生きている命を守らなければ、と

全人類が同じ方向を見て思ってしまうのではないか。

 

そういう気づきが、この企画の根っこの部分にある気がします。

 

貧しい子どもたちの写真を見るだけでは決して感じることのできない、

理性や言葉を追い越して「生きている」という

リアルすぎる情報が"伝わってしまう"鼓動という媒介を発見したのは、

本当にすごいなぁとつくづく思わされます。

 

 

そしてそれを①、②で考察したポイントに留意しながら

鼓動も「音楽」のひとつとしてとらえ、

単なるメッセージング以上のものに仕上げた。

この転換も、素晴らしいですね。

 

 

ちなみに...

 

僕の大好きな漫画「最終兵器彼女」の一節で、

兵器化して耳が機能しなくなってしまった女の子「ちせ」が

それでも聞こえる、彼氏「しゅうじ」の鼓動を聞きながら

 

 あぁ、聞こえる。

 ラブ・ソングだ。

 

といった感想を漏らすシーンがあるのですが、

ふと、その情景が目に浮かんだりしました。

 

 

人が生まれてから奏で続ける鼓動は、「うた」。

「ラブ・ソング」なんだ。

 

そんな、あまりにも素敵すぎる物事の捉え方にも

どこか通底しているように感じたからこそ、余計に、

この企画をとても素晴らしいと感じてしまった自分がいるかもしれません。